『キレイ〜神様と待ち合わせした女』(2014)感想:2

注意! 一部ネタバレしています。
特にこれから舞台をご覧になる方はご注意下さい。

いつものように、限りなく上から目線の感想となっています。
読んで不愉快に思う方がいらっしゃったら ごめんなさい。


『キレイ〜神様と待ち合わせした女(2014)感想:2 【ネタバレあり】
≪感想その1≫はこちら

出演者について。

実は、2か月くらい前に2005年版の『キレイ』をDVDで観て、
そこで止めておけばいいものを、観劇2日前にも再見してしまいまして、
そのイメージが強烈に残っていたせいか、
最初は ほとんどの役に違和感があって、うわ〜やばい!と。

でも、じきに慣れて、
どの役も、逆に前回と違うところが興味深く感じられて来て。

松尾スズキ作・演出、という部分がとても重要な意味を持つ芝居なので、
キャストについては、松尾さんの眼鏡に適ったんなら間違いない、
としか言いようがないと思うんですが、
でも、何で松尾さんはこういうキャスティングにしたんだろう、
と考えながら観ているうちに、
私なりに今回独自の味わいがじわじわと感じられるようになり、
少しずつ納得させられて (自己満足の納得かもしれないけどw)
引き込まれて、満たされて、
あとはもう松尾ワールドに心地良く引き込まれて行きました。


★ケガレ:多部未華子さん
ラストホープ』の時にも感じたことだけれど、
ビーフェイスで可愛らしい容姿に似ず、
彼女の中にはしっかりした芯があるような気がします。
その上、非常にピュアなところを持っていて、
今回のケガレは、その二面性がとても有効に働いていたように感じました。

地下室でのいまわしい出来事をすべて忘れて出て来たケガレの、
生まれたての赤ちゃんのような無垢な感じ、
そこからいろんなことを経験して行っても その無垢さが失われない、
もう何やっても可愛くて愛おしくて、でもまっすぐで、という、
でもそれだけじゃない、かすかに陰影もある、という、
そういうところがケガレにぴったりだったように思います。


★ミソギ:松雪泰子さん
ガラスのような透明感とか芯の硬さみたいなものは、
多部ケガレ〜松雪ミソギにうまく繋がっていたんじゃないでしょうか。

後半、マジシャンにいたぶられるミソギがあまりにも儚げで哀れで、
可哀想になって来て、
あれ、これはちょっとケガレっぽくないな、と思ったのですが、
たぶんケガレがミソギ(大人)になってからは、
生きて行くためにいろんなものを削ぎ落とさなければならなくて、
削って削ってぎりぎりのところまで来ていたところに、
カスミの死を本当に悲しむことが出来ない、という決定的なことがあって、
地下室に戻らなきゃならないことに気づくようになるのかな、と、
そんなふうに、いつも精一杯の引き算で自分の‘表’ を保とうとしてる、
だから「禊(ミソギ)」なのかな、と、
松雪さんを観ていて、そんなふうに感じました。


★ハリコナA:小池徹平さん
阿部サダヲさんの当たり役なので、
徹平くんにはまだちょっと荷が重いかな、
かなりハードルが高かったんじゃないかな、と思ったのですが、
想像していたよりずっと役に溶け込んでいてびっくりしました。
ハリコナみたいな役で この芝居全体の空気に馴染めるというのは、
なかなかすごいことなんじゃないか、と。

ただ、惜しむらくは、
まだどこかに少しだけ小池徹平が残ってる感じがするんですよね。
阿部さんの場合は、どんな役も自分のものにしてしまう
ものすごい適応力を持っていて、
阿部サダヲだったら万事OK」という絶対的な安心感があるのですが、
徹平くんはまだそこまで行ってない、そこがちょっと残念でした。
でもまぁ 相手は 天才・阿部サダヲですからねぇ、
比べちゃ可哀想かな、という気もしますが。

なるべく一所懸命にならないで、役を楽しむことが大事かと。
周りにそういう人がいっぱいいますので(大人計画のメンバーとか)
ぜひ参考にしてみてはいかがでしょうか。
――すみません、めちゃくちゃ偉そうな言い方してるわ。


★ハリコナB:尾美としのりさん
2005年版の岡本健一さんのイメージが強過ぎたせいか、
実はこの役が、最初のうち、私としては一番違和感がありました。
要するに、私が個人的に岡本さんのハリコナが好みだった、
ってことなんですけどね。w

でも、ハリコナAの徹平くんとハリコナBの尾美さんって、
温かさとか、柔らかさとか、何となく共通するものがあって、
なるほどね〜と思うようになって、
そこからは もうどんどん興味が増して行きました。

IQ160になって、何でも来いの天才になって、
たまに失敗することもあるけど、いつも自信満々で、
ゲイだけどそれがどうしたって開き直って、
ところが、自分のパーフェクトなはずの計画が
母親・キネコの命を危険にさらすことになって思いっきり動揺する、
それから すったもんだあったあげく宇宙をめざす、
このめちゃくちゃな揺れ幅の真ん中に思い切ってドンと乗っかってしまえば、
もっと安心して「面白い」と思えるようになる気がするんですけど。

尾美さん、まだ役に対して少し照れがあるように見受けられるのですが。
そこが可愛いらしくもあるんですけどね。
でも、そういうのを取っ払った尾美さんが観てみたいです。


★ダイズ丸:阿部サダヲさん
何をやっても、この人にはほとんど裏切られたことがないので、
ダイズ丸と聞いて、すごく楽しみにしていました。
で、やっぱり阿部サダヲ阿部サダヲでした。

2005年版、橋本じゅんさんのダイズ丸には、
生き永らえていることへの恥じらいとか、
ミソギに対する包容力みたいなものが感じられたのですが、
阿部ダイズ丸には、そういう、前に出て来るものがあまり感じられない。
すごく控えめで、自分の生きる場所を懸命に模索するというよりも、
ただ与えられた場所に 少し遠慮しつつ馴染んで行く感じ。

あまりにもこちらにガツンとぶつかって来るものがないので、
最初はちょっと物足りなくも思ったのですが、
だってしょうがないじゃん こういうふうに生まれついちゃったんだから、
という、諦めとは違う達観みたいなものが感じられるようになって、
ミソギに対しても、
「俺にくれ」という一言がぜんぜんガツガツしてなくて、
だからこそ、最期にミソギに花を咲かせてみせるところが、
ぎゅっと胸が締め付けられるような切なさになったんじゃないかな、と。

余談ですが、このダイズ丸とミソギの間に生まれたアイダくんが、
すごくけなげで、純粋で、まっすぐで、
両親のいいところ全部もらって育っているように感じられたし、
この世界の一縷の希望にも繋がっているように思えて、
私はすごく好きでした。


★カスミ:田畑智子さん
2005年版の秋山奈津子さんは、
カスミをすごく面倒くさい女として演じていたように思うのですが、
田畑さんは、あまり重いものを引きずっていない感じ。
可愛らしくて無邪気なお嬢様の部分を前に出して、
その裏にある屈折を少しだけ見せていたように思います。

徹平くんや尾美さんもそうだけれど、
田畑さんも、ギスギスしたところがなくてまろやか。
そのまろやかさが、田畑・カスミの場合は、
母性みたいなものに繋がっているように私には感じられて、
(ジュッテンとの絡みなどは特に)
松雪・ミソギとのバランスとしても良かったように思いました。

ただ、そのおかげで、
カスミの自虐性みたいなものが薄れてしまったのが、
個人的にはちょっと残念ではありましたが。


★ジュッテン:オクイシュージさん
何だかすごく良かったなぁ。
私、オクイさんが醸し出す空気感って好きかもしれない。
一途に不器用にカスミお嬢様を想い続けるジュッテン、
カネコ家の家族愛の一翼を担うジュッテン、が
じわじわと観てる私に染み込んで来て、何とも心地良かったです。


★カネコキネコ:皆川猿時さん
うわ〜これはやられたなぁ!っていうぐらい、
ものすごくぴったり、って感じがしました。
キネコの、すべてをなぎ倒して進むようなあくなきバイタリティって、
あのぐらい押し出しの効く人のほうが表現しやすいのかも。
最後に大統領になっても、何ら不思議じゃなかったものね。w
それだけ存在感あるのに、主要メンバーが何やかやと
ややこしく動いたり話したりしてるのをまったく邪魔していなくて、
それもまた凄いなと思いました。

そのあたりは、
荒川良々さんら他の大人計画メンバーにも感じたこと。
そもそも脚本の段階で、彼らは表裏があるようには描かれていない、
(松尾さんはそういうふうに人物設定してる)
だからなおさらそんなふうに感じたのかもしれないですが。


★ジョージ:松尾スズキさん
松尾さんの自作での役のイメージって、
いつもこういう いいかげん野郎のような気がするんですけど。w
ほんといいですよね、めちゃくちゃ自由で。
笑いは掻っさらって行くし、引っ掻き回してさっさと消えちゃうし。

考えてみると、
父ちゃんチャランポランで 母ちゃんしっかり者、っていうのは、
クドカン宮藤官九郎)にも継承されてるような気がする、
忠兵衛さん@あまちゃんとか、実とうちゃん@11人もいる!とか。


★カミ:伊藤ヨタロウさん
2005年版で初めて観た時、
全身から醸し出される雰囲気といい、独特の声といい、
摩訶不思議な空気感があってすごく惹き付けられたのですが、
今回は あの時より もうちょっと人間臭さみたいなものを感じました。
そのせいか、
マジシャンとの共犯者的空気が少し濃くなった気がして、
二人の物語を勝手に考えて楽しんでしまいました。w


★マジシャン:田辺誠一さん
舞台に出演した時の田辺さんに対しては、
(自分でも 何様のつもりだよ って思いながらも)
すごくきついダメ出しするのが当たり前になってる私ですが、
今回はちょっとやられちゃった、って感じがします。
とにかく、歌っても、踊っても、コケコッコ―なんて言っても、
ミソギを縛りつけても、カミとつるんでても、
違和感とか引っ掛かりが ほとんどないんですよね。
松尾さんによって作られたマジシャンという濃いキャラに
しっかり乗っかって、余裕しゃくしゃくで演じているように見える。
押し出しもある、スケールも大きい、見た目もかっこいい、
あれ この感じ誰かに似てる、と思ったら、
TOKIOの長瀬くんだった。w

その「長瀬的 空気感」を田辺誠一が不足なく表現している、って、
実は、長年田辺ファンやってる身からすると ‘ものすごいこと’ なわけで。

強さとか、自信とか、欲望とか、自分のストレートな感情とか、
そういうものをほとんど表に出さないような役が多い俳優さんなので、
ねじ曲がった昏(くら)い執着 みたいなものを今回観られたというのは、
ファンとしてはすごく興味深かったし、嬉しいことでもありました。

だから、素直に降参、白旗揚げます・・と言いたいところですが、
そこはそれ、ひねくれ者の私ですから、
せめて遠吠えぐらいは残しておかないと。w

この芝居は、マジシャンが自殺するところから始まります。
マジックが下手な自分に絶望してこめかみに銃を当て引き金を引く、
しかし弾は彼の頭の中に残り、そこからカミが生まれる。
死に切れなかった彼の頭の傷口から生まれたカミは、
絶望に支配されやすいマジシャンが底辺に持つ はかない危うさや、
母親の呪縛から逃れられない気弱さ、情けなさ、といった、
彼の‘負’ の部分をねじ伏せる力を彼に与え、
彼は、その力によって、
やがてマジシャンとしての名声を得ることになるのですが。

他の主要メンバーと同じように、
マジシャンにも‘負’ の部分があるんですよね。
どんなに隠しおおせようとしても、いきがって強気に出ようとしても、
どこかで、ずるさや、弱さや、卑屈さや、
ひねくれたりねじくれたりしてる部分が、ひょいと突き出て来る。
その時に、もう一色 二色、
田辺さんらしい色味をつけることは出来ないだろうか・・
特有の がなり声は マジシャンとして継承されたものだとしても、
(2005年版のクドカンも同じような声の出し方だったので)
そういう縛りの中でも、田辺色を役の上に刷くことは可能だと思うのですが。
マジシャンの裏、マジシャンの負、
その部分を 表マジシャンにどう注入して深めて行くか、
それこそ、俳優・田辺誠一の本当の腕の見せどころじゃないのか、と。

・・はい、かなり欲張りなことを言ってるのは承知の上です。
でも、決して「ないものねだり」してるわけではない、と思っています。


≪感想その1≫はこちら

『キレイ〜神様と待ち合わせした女』(2014)感想:1

注意! 一部ネタバレしています。
特にこれから舞台をご覧になる方はご注意下さい。
また、文中に一部差別用語が含まれています。ご了承の上お読み下さい。


『キレイ〜神様と待ち合わせした女(2014)感想:1 【ネタバレあり】

大人計画松尾スズキさん作・演出『キレイ』9年ぶりの再々演。
「どうだった?」って誰かに訊かれたら、
とりあえず「ほんとにすごかったよ!」と言う、
そのあと「どこが?」って訊かれたら 「・・全部!」って答えるしかない、
だって、そう答えるしかないでしょ、これはもう。

いつも思うのだけど、松尾さんの芝居は感想を書くのがものすごく難しい。
芯を貫くような明確なストーリーはないし、
何か意味のあることを考えかけると
次の瞬間には それを粉々にされてしまってるし、
そもそも、そんなことをウダウダ考える間(ま)を与えられないほど、
次から次へと場面は変わって行くし、時系列は混ぜこぜだし、
主要人物はみんなめんどくさいし、
そんな彼らが背負ってたり抱えてたりするものを
こっちにどんどんぶつけて来られて、
痛いし、切ないし、面白いし、馬鹿だし、
ただただ舞台の彼らに惹きつけられて3時間半、
終わってみたら「松尾スズキすごい!」という感想が真っ先に浮かぶ、
そういう舞台でござんした。チャンチャン。

・・・いやいやいや。
そこで終わっちゃいけない、なんか負けた気分になる。頑張ろう。

    **

《宇宙は見える所までしかない》という曲の中に
「物語で私を飾らないで」というフレーズがあるのだけれど、
松尾さんは、見た目や言葉のかっこよさとか美しさから
‘飾り’を捨て去ったところに、
醜さとか、残酷さとか、いやらしさとか、
奇形とか、異質なものとか、そういうものを普通に・・
そう‘普通に’そこに同じように並べて来る。

この芝居全体が
「物語」という綺麗事(きれいごと)にキチッと収まってしまうことを嫌いつつ、
普通でないと思われている者が 普通(あたりまえ)に存在する空間を、
あたりまえのように(普通に)表現してみせる。

頭は弱いけど枯木に花を咲かすことが出来るハリコナ、
最期まで純粋さを貫く異形のダイズ丸、
美しく何不自由ない暮らしをしていながら偽善に走るカスミ、
目を閉じることで見たくないものを見ないことにしたジュッテン、
10年間地下室に閉じ込めた女を探し追いつめて
屈折した感情をぶつけるマジシャン・・

ここに登場する彼らは、皆、表(正)と裏(負)を併せ持っている。
肉体的な正と精神的な負、あるいは、精神的な正と肉体的な負・・
どちらにしても 何か欠けたものを抱えた・・
言わば 片端(かたわ)なヒトたちなんだと思う。

   (片端という言葉が差別用語なのはもちろん知っていますが、
   ここでは自分にとってとても意味のある言葉になっているので
   あえて使わせてもらってます。不快に思った方がいたらごめんなさい)

そんな片端の彼らが 普通 に生きている世界に、
観ている者はぐいぐい引きずり込まれ、
じきに その‘普通’に慣れて、
この物語の、物語という形にならない複雑さも猥雑さも受け入れて、
舞台全体から発せられる熱にズキズキしながら、
ありえない世界のありそうな現実に引き込まれて行く・・

もしかしたら、舞台上のすべては、マジシャンがかけた催眠術で、
ケガレはもちろん、宇宙に行き損ねたハリコナにしたって、
実は「ソト」に出たわけじゃなくて、
彼らから見える宇宙の遥かその先にソレはあって、
登場人物全員、
何層かに分かれた空間に閉じ込められているに過ぎなくて、
それは当のマジシャンや神にしても同じことで・・


芝居が終わって、マジシャンの催眠術が解けて、
不思議な夢から醒めたように、私は少しホッとして、
それから 何だかとても淋しくなる――

自分の半分を地下室に置き忘れたまま、表だけで生きて来たミソギは、
やがて、その もう半分の自分と一つになるために地下室に戻る。
ミソギと少女ミソギは とりとめなく話し合う、
よろしくケガレるために、よろしく生まれ直すために・・

そうして新しく生まれたケガレは、
花火になったハリコナを見て叫ぶ――「花!・・キレイ」と。
そして歌う「裸で間抜けで私はキレイ ケガレてケガレて私はキレイ」と。

――何だかとても淋しくなる、
まだくっきりと耳に残るそのケガレの歌を思い返して、
これは、マジシャンの煙幕で出来た白い繭玉(コクーン)が私に見せた、
‘特別な普通’ の世界のお話なのだ、と思い知らされて。

そうして、私はソトに出て ‘本当の普通’ に帰る、
健全で、正常で、ささいな間違いをも認めず、
ケガレたもの(片端なもの)に蓋をして見ないふりをする、
あるいは徹底的に排除しようとする、
偽物の「キレイ」が幅を利かす、シアワセな世界に。


・・・・何だかふわふわと
身体も心も「あるべき場所」に着地しないまま2日が過ぎて、
自分の内にも間違いなく存在するケガレ(片端な部分)を、
愛おしく思うことを許されたような気がする今・・

まぁ、松尾さんは、
こんな安易で中途半端な共感など、
断固として拒(こば)むんじゃないかとは思うけれど。w


≪感想その2≫(出演者について)はこちら


12月10日(水)13:30開演 Bunkamuraシアターコクーン 1階BR列
Bunkamura25周年記念
『キレイ〜神様と待ち合わせした女』     
公演日程:2014年12月5日-30日/Bunkamuraシアターコクーン
2015年1月8日-18日/シアターBRAVA!
作・演出:松尾スズキ 音楽:伊藤ヨタロウ 音楽監督:門司肇 振付:振付稼業air:man 
演出助手:大堀光威、佐藤涼子 舞台監督:二瓶剛雄
チーフ・プロデューサー:加藤真規(Bunkamura)、長坂まき子(大人計画
出演:多部未華子阿部サダヲ小池徹平尾美としのり田畑智子
皆川猿時村杉蝉之介荒川良々、伊勢志摩、猫背椿
宮崎吐夢顔田顔彦少路勇介、町田水城、伊藤ヨタロウ、
家納ジュンコ、オクイシュージ、松尾スズキ田辺誠一松雪泰子 他
『キレイ』Bunkamura公式サイト 
『キレイ』大人計画サイト